「お面」によって演技させられる
私は学生時代、友人と一緒に映像作品を作ったことがある。
その中で私は演者となり、「お面」を被りって演技することになった。
お手製のお面だったので、作りはとてもちゃちく、被り心地も最悪で、視野もピンホールカメラのように点が2つなもんで、歩くのもままならなかった。
しかし、その感覚がどうも魅力的でもあった。
とても不思議な感覚だった。
前述したように、視野がとにかく悪い。
そうなると、自然と動きはもっそりとなり、しきりに頭を動かして視野を確保しようとする。
全体的に動きが大袈裟になり、そして滑稽となり、まさしくそのお面に乗っ取られたような、そのような感覚すらある。
もはや自分が自分でないような感覚。
そこにいるのは「お面」的生命体である。
昔、占いで何でもかんでも決めていた時代とかでは、シャーマンがお面なんかを被っていたとか本で読んだ気がする。
当時その本を読んだ私は「変なの」と理解できなかったが、お面に魅了された経験を経て、お面を被ることで神を宿らせるような感覚を得ようとするのは、非常に納得してしまった。
「そんなことで人は変わるのか?」と思うかもしれないが、多分思っている以上にお面の魔力は凄まじい。
一種、身体が変化してしまうようなものなのだと思う。
そして面白いことに、そこで撮影されたお面を被った自分を見ても、それをあまり自分だと感じないのである。
映像の自分と、その時の自分の客観的な様子が一致しないのである。
そこには私ではない、何か新しいお面のキャラクターが存在しており、どうも他人事のように「変な動き」と吐いてしまう。
なかなか言葉にして伝えることができないが、凄まじい体験だった。
私たちは道具を使っていると同時に、その使っている道具に影響を受けている。
インタラクティブな関係、まさしくそれはコミュニケーション。
コミュニケーションとは、決して人同士するだけのものではない。
そういったことを、特に「お面」はわかりやすく教えてくれる。
となると、どういうお面を被ると、どのように人は動きを変えるのか、そんなことが気になる。
また、いつもの日常も、何か「お面」を被ることで、まるで異国へ観光に行ったように新鮮な気持ちで過ごせるのかもしれない。
いや、どちらかというと、異星人になった気持ちだろうか。
環境やあらゆる道具、物が、人にとっては「お面」であり、一種、人を演技させる。
そういう意味では、それらは「もう1人の自分」とも言えよう。
そう考えてみると、周りものたちの見る目が変わってくるような気がする。