「好き」をまとうな、燃料にしろ
『「好き」をまとうな、燃料にしろ』
今日、友人と話してて出てきた言葉です。
自分の中でとてもしっくりきてしまいました。
「好き」を持つことはいいことであるはずなのに、むしろその持っている「好き」のせいで苦しんでいたり、動けなくなったり、ケンカしていることがある。
そんなことくらいなら「好き」なんて持っていない方がいいじゃないかと、思ってしまいます。
しかし、それはきっと「好き」を鎧みたいに「まとってしまっている」のだろう。
鎧と言われるとなんだか守られていて強そうに見えるが、実際は逆だ。
「好き」を刺されると、鎧という自分じゃない部分のはずなのに、とても痛いと感じる。
それってもはや、まとった分自分が大きくなってしまって、弱点も大きくなってしまっているのです。
そして、みんながみんな「好き」をまといだすと、一人一人が大きくなり、その分他人と接触してしまう機会が増えます。
そうして、自分のまとっている「好き」を守るために、相手のまとう「好き」を攻撃したり、傷つかないように避けたり、なんとも不健康な動きになりがちになってしまっているように感じてしまいます。
それなら、「好き」をまとっていない方が自由で、とても気軽に世界を浮遊しているように感じてしまう。
じゃあ、やっぱり「好き」はいらないのか。
いや、決してそうではないはずです。
「好き」はきっとまとうものじゃないんです。
むしろ身体の血液のような、自分を動かすエネルギーとして運用するといいのではないかと。
例えば、靴を絵で描くことになったとします。
描く技術どうこうは置いておいて、靴そのものが好きか、そうではないかで描き方は大きく変わってきます。
「私はこの靴のラインがたまらなく好きだ」とか、「この皮の質感がクールだ!」とか、そういうのを持っている人の描く靴の解像度はまったく違います。
同じ技術力であれば「好き」を持っている人の方がその好きを表現した靴の絵を描けるし、例え技術力がなかったとしても、成長スピードは早いのではないだろうか。
そしてなにより、靴が「好き」なことによって、靴を「描く」ことも楽しく取り組むことができるのではないだろうか。
だから、どかーんと大きく「好き」を無理やり持つ必要はなくて、小さな「好き」を大事にたくさん持っているような感覚でいいんじゃないかと。
小さい「好き」は結構簡単に見つけられるものです。
ボールペンの先を出し入れするカチカチする音が好きだとか、ストローの先をついつい噛んでしまうとか。
「好き」に社会的な意義とか、オリジナル性とか、不必要なのです。
その感覚を燃料にして、材料にして、いろんな物事を楽しくしていけばいいのではないだろうか。
楽しんでいないと、ほんと何にも始まらないものです。