戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「賭け」と遊び

 

先日、あまり馴染みではないグループの人たちと4人で遊びに行きました。

彼らは決して悪い人ではなく、むしろとても優しくてしっかりしている人たちなのですが、どうも趣きが違うと言いますか、やはり少し馴染み切れないのです。

彼らは本当に賭け事が好きです。

なんでもかんでも、ジャンケンして負けた人が全員分奢るとか、酒を飲むとか、罰ゲームを作りたがるのです。

集まりの中でも私は金銭面的に余裕がないのもあるし、そもそもそういうのに気が乗らないというのもありますが、だからといって、その場で「オレはいいや」と断ってしまうと場の空気を壊してしまうので、そう易々とは言えないものです。

そして、なんでかこういう嫌々参加した「賭け」にかぎって負けてしまうんですよね…。

故に、やはり良い人たちではあるのだけど、しょっちゅうは会ってられないのです。

数年に1度くらいでいい。

 

ですが、そんなこと言いつつ、やっぱりどんな要素にも「賭け」が入ると面白くなってしまうことは認めざるおえません。

負ければ割と本気で嫌な気分になるし、その分、勝った時はお得さと負けた人の嫌がる顔を見て喜んでしまいます。

こういう友人同士の「賭け」や「罰ゲーム」というのは一種「じゃれあい」に近いように思います。

いわば親しき友人同士で「傷つけ合う」、そしてそれを「許し合う」ことに価値があるのです。

相手にとって嫌なことをすることはしてはいけませんが、それを許してもらえるというのは関係性ができている証拠であり、それを実感するととても嬉しいものなのです。

また、「賭け」というのは最強のスパイスです。

フワッとしたゲームも、「賭け」というスパイスが入ることで現実味を帯びさせる、それはゲームという仮想での「傷つけ」を現実へとつなげてしまうことです。

それによってプレイヤーのリアクションと、ゲームの展開の波を拡大させ、プレイヤーたちの心を大きく揺さぶります。

その揺さぶりが大きいほど、激しいジェットコースターのように猛烈に興奮することができるのです。

 

いやしかし、だからと言ってなんでもかんでも「賭け」に収束させてしまうのは寂しいものです。

「賭け」に負けないくらいの展開を、遊びの要素として組み込めるようになりたいものです。

そのためにも、もっと「賭け」というものに向き合っていかなければなりません。